わかったと思うかどうかは、イメージできるかどうかの問題!
服部先生は京大の理学部出身で、ノーベル賞を取った江崎玲於奈さんの弟と同級生だったと自慢していらっしゃいました。
そしていつも「京大なんて、簡単ですよ」と口癖のようにおっしゃっていて、物理の話や大学の話をよく話され、生徒の背中を常日頃から押していらっしゃいました。
私が京大に行こうと思った一番の原因は、この服部先生のお陰だと思っていますが、その先生の講義で、私は運動方程式がやっと理解できました。
等式の左に、その物体に働く力を書き、右にその物体の質量とその物体の加速度を書く。ただそれだけですが、ちゃんと使えるようになりました。
運動方程式に対して、高校時代、そういうイメージができていなかったのが、イメージができてから「わかった!」という気になったのです。
数学がわかるかどうかというのも、実は物理と同様イメージが必要なのです。
前回、数学は虚学であると書きましたが、数学だって様々なイメージがあり、背景にもいろいろな現象やエピソードがあるのです。
微積分は、ニュートンやライプニツが確立したのでまだ150年くらいしか歴史はありませんが、幾何などは古代エジプトや、ギリシア時代から、もう何千年もかかってできあがっています。
数学だって「必要だから生まれた学問」
幾何がエジプトでなぜ発達したかというと、エジプトの中央を走るナイル川が毎年氾濫し、その後の農地の区画整理をするのに必要だったからだ…といわれています。
また確率論は、ポーカーで必勝法を研究するために発達したとか、そういう話もあります。
物理の力学も、実はビリヤードの研究から発展してデカルト→ニュートンとつながっています。
微積分は、天体の運行や、樽の中の酒の量を計算するのに発達し…などという「伝説」も、そのイメージを掴むのに役立つでしょう。
ですから数学だって、実は実用性から説いてもいいはずなのです。
しかし学校のカリキュラムは逆に無機質で抽象的なところから始まって、それから「利用」という風に進むというやり方です。
人間は、意味のわからないことを延々続けるということはできませんから、もし数学の必然性を疑問に思ったなら、それが元々なんのためにできたのか、数学史関連の本を読んで調べてみるのも一つの解決策かもしれません。
敵のタカを知るのも、一つの攻略法ですから。
どちらにせよ、数学だって「必要だから生まれた学問」なのであって、その辺りを確認すれば、多少は数学嫌いも治るかも知れません。