日本の国語学習の弊害
日本語で書かれた文章を、英語に直す。
言葉にすれば簡単ですが、ハッキリ言ってそんなに簡単な話ではありません。
理由は簡単です。日本の学校では、そういう訓練をしないからです。
「でも、学校では英作文やライティングの授業があるよ」 。
もちろん、そんなことはボクも知っています。
が、問題の根元は、もっともっと根深いのです。
と言うのも、和文英訳を苦手とする人が多いのは、日本の国語教育が原因だからです。
日本の国語教育というのは、思いきっていってしまえば、小学校から高校まで、小説を読み、自分の好きなことについて作文を書くだけです。
与えられた題材の文章を読み、登場人物はなぜそういう行動に出たのか、はたまた作者の言いたいことは何だったか、当てるだけです。
文章を書くと行っても、せいぜい作文か読書感想文くらいです。
古文を習ったからと言って、古文を書く練習をさせられた人は、まずいないでしょう。
漢文を習ったからといって、漢詩を書く練習をさせられた人はまずいないでしょう。
大学を卒業するときには、たいていの大学で卒業論文を課せられますが、高校まででそういうことを課すところは滅多にありません。
だから学校を出て、社会に出ると途端にみんな困ります。
実用文を読んだり書いたりする練習を、学校では全くといってしてこなかったから、社会に出て議事録をまとめたり、報告書やレポートを書くので、みんな悪戦苦闘します。
何十回も集まって会議を開き、いろんな意見を出し合ったというのに、議事録はレポート用紙一枚程度だけで、しかも決まったことや確認したはずのことが書かれていない…。
あるいは、書いた人にのみ都合のいいことだけしっかり書かれていて、反対意見が出たことすら載っていない…
会議にたまたま所用で参加できなかったりすると、議事録を見て「結局何を解決したんだ?」という感じになります。
いったい何のためにわざわざ集まって会議をしたのか。あ然とします。
で、問題だから議論したのに、その部分が解決されずに残り、最初に作成された仕様がそのまま有効になって、実際にプロジェクトを進めてみるとやっぱり後々大問題になっていきます。
議論をしている時には、ちゃんと問題点が明らかになっていて、それをどう解決するか話し合って合意したはずなのに、記録が曖昧で、なおかつみんな自分に都合の良いようにそれを解釈して行動するので、何十時間も会議しているというのに、問題が根本的には解決しないわけです。
それもこれも、日本の国語教育というモノが、小説の読解に偏重しているせいなんじゃないのか? というのが、ボクの意見です。
他人の言ったことや、他人の書いたモノを、正確に文章に写し取る。
あるいは要点を逃さずに捉えて要約する。
そういった訓練をしっかりしていないのに、難関大学の入試で出てくる和文英訳問題が解けるはずがありません。
他人が書いた文章なのに、和文和訳すると自分の意見になってしまう。だからこれをうまく英語で表現できたとしても、0点にするしかありません。
東大の英語で、なぜ要約問題が出題されるのか、以前はずっと不思議でしたが、高校生の和文和訳を見させてもらうと、その謎が解けました。
殆どの人が全然できておらず、自分の勝手な書きたい文を書くからです。
目眩がするくらいです。これでは、お話になりません。