労働価値説とセーの法則

労働価値説とセーの法則

モノの値段と労働価値説

経済学的組織論における最も基本的な分析単位は「取引(transactionトランザクション)」である。

 

 モノ(財)の所有やサービスが、ある人間から別の人間の手に渡ることがすなわち「取引」であるが、この「取引」が全ての価値を決める基準である。

 

 古典経済学やマルクス経済学といった百年以上前の古い経済学では、モノの価値や価格を非常に固定的に捉えていた。

 

 すなわちモノの値段は「それに投入された労働価値」によって決まり、宝石や貴金属と言ったモノさえも労働価値によって測りうると考えられていた(労働価値説という)。

 

 それはつまり大ざっぱに言うと、(原材料価格)+(労働価値)=(モノの値段)というもので、原材料価格だって実は労働価値の積み上げによって決まるはずだから、全てのモノの価値はそれを生産するのに使われた労働価値の合計として捉えることができるだろう、、、と言うことである。

 

 因みに労働の定義とは単なる肉体労働や雑用のことではなく、「自然や原材料に対して人間が何らかの働きかけを行って有用なモノに変化させる」ということらしい。

 

 だがしかし、造ったモノが有用であっても原価以上で売れるという保証はない。

 

そしてまた、労働によって作られたモノが本当に有用であるかどうかも、実はハッキリしない。

 

 ボクはスーパーの食品売場でアルバイトを始めてもう五年目になるが、売れない商品というのは本当に売れないモノなのだ。

 

 だからもし商品が原価以下でしか売れなかったり、賞味期限内などの有効期間内に売れなかったならば、この式の労働価値は0やマイナスになってしまう。

 

 理科系の人間の感覚としては、価値がマイナスであろうと虚数や複素数であろうと別に問題はない。

 

 実際全然働かないバイトもたくさん見てきたし、働いていると言うより逆に仕事を増やしてくれているような人間も何人かいたから、労働価値が0の場合もマイナスの場合も、或いは複素数の場合だって充分定義できよう。

 

 だがそういう場合について学問上一体どうなるのだろうかと疑問に思ってそのことを大学の授業で教官に尋ねたら、マルクス経済学系のその教官はただ一言「そういうことは考えない」とのたまった。

 

 というのも実は労働価値は別な価値とリンクされているものであって、必ずプラスの値をとらねばならないのだという。

 

 その別な価値とのリンクとは、「労働価値は、労働者が労働の疲れを癒したり回復するための費用(いわゆる生活費)と等価でなければならない」というものであり「だから労働価値は必ず正の値でなければならないのだ」という。

 

「う〜ん、、、、何のこっちゃ?」 労働者に支払われる給料は正の値でなければならない、、、というのなら納得も行こうが、だから労働価値が必ずプラスにならねばならないという理論はやっぱり変な理論である。

 


セーの法則

 このように最初の方で「○○は××と等価でなければならない」という決めつけのような一文が入るのが、この手の論理のヒドいところである。

 

 農業経済学の分野の本でもたまに「農業の単位時間当たりの収益(生産性)は、都市の製造業の単位時間当たりの賃金と同水準でなければならない」なんて勝手な取り決めをさも当然のごとくにして、それを根拠に自説を展開しているようなことがあるが、要するにこれは最初に自分の望む答えを勝手に正しいことだと決めて、なぜ現実がそうなっていないかを考えているだけなのである。

 

 これは別の言葉で言えば「自己無謬性の仮定による推察」とでも言うべきだろうが、理論を展開している本人に自覚がない場合は人格障害と診断されたりすることだろう。

 

 だからボクはなぜこんな妙な理論が説得力を持つのか、全くよくわからなかった。

 

 確かにこういう決めつけがあれば、労働者や農家にとって非常に好都合な話であろう。

 

 だがしかしそれは一時的なモノで、結局はマクロバランスを狂わすことになる(=要するに全体では帳尻が合わなくなる)。

 

 マクロバランスが狂えば結局その帳尻の合わない部分を背負わされるのはやっぱり立場の弱い人間で、そこに必ずしわ寄せが行く。

 

 つまり状況はちっとも良くはならないのである。

 

 だがアダム・スミスやカール・マルクスが生きた時代というのは産業革命によってモノが大量生産された「高度経済成長期」であり、モノを造ればたいてい売れるという状況であったらしい。

 

 このような状態を「供給が需要を喚起する(要するに「作れば売れる」)状態」といい、これを「セーの法則が成り立つ状態」と呼ぶ。

 

 このような状況下だと確かにモノには必ず原価以上の値段が付き、モノの価格がプラスであれば労働価値の総計がプラスになる。

 

 だから、ある段階で労働価値がたとえマイナスになっても「それは他の段階で誰かが余分に取ったからだ」という風に説明(言い訳?)ができるのだ。

 

 だがこういう労働者にのみ都合の良い労働価値説は、結局作ったモノが必ず売れるという状況でしか成り立たないから、次第に否定されるようになっていった。

 

 つまりモノの価値を労働価値の合計で表すことは可能であるが、実際の労働者の労賃を合計しても、モノの値段と一致しはしないというわけだったのである。

 

(つづく・次回は効用関数の話の予定)

 

今回の・・・

 

「モノの価値を労働価値の合計で表すことは可能である」というのは、産業連関表を労働単位で書くことができるという風な意味だと思ってくださって結構です。

 

 要するに世界にある全ての財やサービスに1からn番まで番号を付けて、それぞれの財やサービスに対してn次の連立方程式をn個立てて解けば、あるモノの価値を労働価値の合計として表すことができます。

 

 この時マクロバランスは、全ての財やサービスについて連立方程式を立てているので狂いません。

 

 だから「もしマルクスが連立方程式を知っていたなら、マルクス経済学ももっと説得力を持っただろう、、」なんて言われたりしますが、たぶんそうすると結局今の経済学と大差ないモノになっていたのじゃないかと思われます。

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