粉食(こなしょく)が、日本農業にとどめを刺した?
考えてみれば戦後の食糧難の時代に米は貴重品であったから、人々はアメリカから送られてくる援助物資(メリケン粉=アメリカの小麦粉)でパンを作ったりウドンを作ったりして食べていた。
小麦粉を水で練ってお湯の中に落とし、みそや醤油で味付けした「水団(すいとん)」のようなモノも、貴重な食べ物であった。
戦後すぐに始まった学校給食でもパン食が採用されたし、お好み焼きやたこ焼きや餃子・ラーメンといった「粉食」が広まったのも、戦後のことである。
さらに昭和33年のチキン・ラーメンの登場、その後のカップ・ヌードルなどの登場によって、小麦食はしっかりと日本人の食卓に定着した。
そしてまた洋食や中華料理の普及定着に伴ってタマゴ・肉類・乳製品・食用油の需要も爆発的に増えたのだが、これらの需要を根元で支えるには、大量の小麦や雑穀(トウモロコシやその他の麦類)そして大豆や菜種といった作物生産が必要だった。
だがしかし米作偏重の日本農業は、それに対して応えることができなかった。
もちろん政府とて、このような食生活の変化を無視ししていたわけではない。
麦類は食糧管理法で買い上げ価格を高めに設定し、安い輸入小麦を高く売った利益で国内小麦を安く放出した。
68年には畜産振興事業団を作り食肉の供給量と価格を安定させ、畜産農家の振興策を打ち出した。
また酪農の振興のために原乳価格が標準価格を下回った場合にその差額を支払うという「不足払い制度」も導入した。
大豆や菜種に対しても同じく標準価格を設定し「不足払い制度」を敷き、輸入大豆や輸入菜種に対抗できるように配慮した。
だがしかし、政府はそれらの生産の元原料を生産するインセンティブを日本の農家に与えることはできなかった。