「農民の二極分化」と「中農標準化」
明治農法は「資源多投型」の農業であった。
もちろんこの場合の「資源」とは経済学的な意味の資源であって、天然資源ではない。
資金とか技術とか労働力とか言った、生産に必要とされるあらゆる材料や能力のことである。
明治農法ではまず第1に、完全な乾田を作るために田んぼはフラット(なおかつやや傾斜気味)に造らねばならなかった。
さもなければ水を抜いたときに水たまりができて、そこから害虫や病気が流行ったりする。
だからまず精密に水田を作り、ちゃんと排水が完了するように造成せねばならなかったのだが、それには資金と技術が要った。
そしてまた自由に水を入れたり抜いたりできるというのが乾田の条件だから、水路や水車やポンプのようなモノが完備されていなければ話にならないが、それを行うのにもやはり金と技術が要った。
もちろんそういった農業のインフラストラクチャーが整っていたとしても、生産にはたくさんの労働力や肥料で、それにも資源や金がたくさん必要だった。
乳製品を喰う習慣のなかった日本では、耕耘するためだけに馬や牛を飼うなんてド贅沢なことであったし、しかも明治維新時に里山は没収されて牧草も手に入らない。
言ってみれば「ないないづくし」であったのだが、しかしそれができないからと言って以前のようにムラ的農業に立ち戻るわけにもいかない。
自分の所有する土地に課せられた地租を現金で納入できなければやがては土地を手放さねばならない羽目になり、実際そうして自作農から小作農へと逆戻りする農民は後を絶たなかった。
地租の金納制は農民に積極的な市場参加を求める制度であったが、小作であれば税金は地主に産物の何割かを差し出すだけで終わりである。
何も都会に出て市場動向を調査したり、売れる商品を見つけて市場をにらんだ産地形成を行ったりといった努力などしなくとも良い。
だから消極的な農民はそうして自分の土地を手放し、リスクプレミアムを地主に支払って小作に逆戻りした。
農業が嫌な者は街へ出て、工場労働者として働きだした。