多彩だった、日本農業
今でこそ日本の農家は米ばかり作っているが、江戸時代から明治の初期まではそんなに米偏重の農業ではなかった。
それというのも稲作は水不足や労働力不足、或いは病害虫の発生や台風などといった様々な障害によって非常に不安定な耕作であり、そのリスクを回避しなければ農業は成り立っていけなかったからである。
だから当時は稲の品種も多岐に渡り、早稲(わせ:春の早いウチに作付けする稲)より晩稲(おくて:夏前に作付けする稲。
比較的収穫が多い)に比重が置かれていた。
そして土地利用法も田んぼは田んぼ、畠は畠、といった通り一遍の利用形態ではなく、時には田んぼとして使い、時には畠として使うという方法で利用することが多かった。
たとえば江戸時代にはもう既に、大阪の南にある泉南(関西国際空港の付近)では「田畑輪換(作)」が始まっており、水田で稲作と棉作が行われていた。
輪作とは二種類以上の作物を交互に栽培するやり方で、一種の輪栽式(ローテーション)農業であるが、この場合は田んぼの半分で稲作、そして残りの半分で棉作をするという方法であった。
なぜ泉州でそういうことをしていたかと言えば、泉州では水不足が時々起こったからである。
稲作にはご存じの通り大量の水資源が必要だから、田んぼを全部水田として使うと水不足になった場合収穫が大幅に減ってしまう。
だが田んぼの半分を畠にすれば少々の水不足でも水田に入れる水は何とか確保できるし、残りの半分の畠でも十分に収穫は期待できる。
確かに稲作は金になるが、しかし当時は米ばかり作ってもいられない。
今みたいに外国から農産物はやってこないのだから、棉作だって加工すれば十分に商品になった。
そしてまた水田に生える雑草と畠に生える雑草は種類が異なるので、二三年毎に作物を換えて輪作することで雑草の繁殖を抑えることもできた。
というのも雑草の種子の寿命はたいてい二三年で尽きるので、そういう田畑の転換を行って輪作すると、雑草が大繁殖する前に未然にその繁殖を防げたのである。
そういう様々な工夫が実は日本全国にあった。
だから土地の利用率は全国平均でも年135%に達し、特に農業技術の進んだ西日本では年180%にも達していた!農産物はもちろん十分に国内で自給しえ、お茶もアメリカなどに輸出するだけの余力があった。
そしてなんと米までもが「糊の材料」としてヨーロッパに「輸出」されていたのである!だがしかしそんな多彩な日本の農業生産も、明治30年(西暦1900年)を境に「米偏重農業」へと変容していくのであった。
なぜなら江戸時代は三千万人前後で安定していた人口が明治維新以来増加を続け、とうとう米不足が生じ始めたのである。
地主は金になる米を作ることを小作に強要し、国家も様々な形でそれを支援しだした。
早稲の育ちが悪ければ晩稲を増やして生産量を調整したり、あるいは稲を青刈り(できが悪いので穂をつけないうちからかりとってしまう)して別の作物(キビだとかソバだとか)を作付けしたりといった「危険分散策」が講じられ、稲の他にも棉作や養蚕や茶の生産も盛んであった。