統合された労働市場と、分権的な市場
1920年代の小作争議は岐阜・愛知での争議を嚆矢とし、主に大阪や兵庫で大々的に繰り広げられた。
その争議の原因は都市の近代化や産業化にともなって発生した農工間格差を農民が自覚したためであり、その原因を高率の小作料と結びつけた結果の「条件改善運動」であった。
運動の矛先は大規模な「不在地主」に向けられ、そしてその結果、小作料は実に二割前後も「値下げ」された。
もちろんその背後には、都市の産業が発達したために多くの農民がムラから流出して都市労働者になったり、また都市周辺の自作農が転業して他の事業を始めたりといった「小作人不足」「耕地過剰」があった。
言ってみれば近畿の小作人には「外部雇用機会(転職機会)」が十分にあり、別に小作をクビになって農地から追い出されても、「大阪で丁稚でも職人でもやりゃあいいや。
行商だって雑魚場(魚市場)だってあるしな」という状況があったからである。
経済学的に言えばこれは、「統合された農工労働市場」が近畿にはあり、だからこそ小作人の待遇も小作争議によって都市労働者並の水準に引き上げられた、ということになるだろう。
ところが一方、東北六県では逆に小作料が「値上がり」した。
そして実はその原因は「新農法の導入や耕地整理によって収穫量が増えた」ことであった。
明治維新前後の農業の話をまとめた時に少し触れたが、大阪の泉南などでは江戸時代にもう「田畑輪作」が始まっていた。
田畑輪作というのは一つの土地を二三年田んぼとして使ったら、その後の二三年は畑(主に棉)として使うという方法で、限られた水資源を有効に用いる農法である。
水田の乾田化というのは言ってみればその延長線上にある技術であり、そういう意味で近畿では明治維新以前にもう明治農法への転換が始まっていたと言える。
だから1920年代の小作争議が頻発した大阪や兵庫といった地域では、既に生産性の向上は当時の限界まで引き上げられていて、もはやそれ以上の収益増は望めなくなっていた。
しかし逆に、東北六県の農業生産性は、ようやく向上し始めたところであったのだ。
お陰で東北では収穫量が増えて、小作料が上昇した。
「収穫が増えるとなぜ小作料が上がるんだ?」という疑問もあるだろうが、土地の賃貸料はその土地の生産性の高さに依存する(左右される)のである。
これは、リカードの「差額地代論」という有名な理論である。
たくさん農産物を収穫できる土地は借り手も多い。
だから賃料(ここでは小作料)も高くなる、という単純な理屈である。
だがそれはもちろんそれだけの理由ではなかった。