地租改正と近代的土地所有

地租が地価の3%と定められたのは、別に大した根拠はない。

 

単に租税総額が、それまでの年貢を金銭換算した総額を下回らないように設定されただけであった。

 

そしてその租税額を決める元になる地価も、その土地から上がる収益額を平均利率で割ったものと言うことになった。

 

つまりある土地(地価X万円と仮定)で毎年10万円の利益が上がっていたとすると利回りは10/xであるから、これを銀行などでの利回りと比べて同等になるように決めた。

 

すなわち銀行の利回りが0.1(10%)であれば、x=100万円となるからその土地の地価は100万円と言う風に決まったのである。

 

そういう風に決まった地価と地租であったが、地租改正は税負担を大幅に上げるというようなモノではなかった。

 

なぜなら江戸時代も明治時代も領主はできるだけ多く年貢や税金を取ろうとし、国民もできるだけそれらを取られまいとして一種の均衡状態が既にできあがっていたわけであるから、もうそれ以上重税を課しても意味はなかったからである。

 

(ただし地租改正後も何年かは旧封建領主に対し物納で年貢が納められた地域があるが)。

 


だがしかし地租改正は農村のあり方を大きく変えることとなった。

 

その第1は土地の所有者がハッキリ決定されたことである。

 

つまりここの田んぼは誰のモノであるか、ここの畠は誰のモノであるか、土地台帳によってハッキリ記されるようになった。

 

地租は地価に対してかける税金である。

 

だから税金を支払うのはその土地を所有している者と言うことになる。

 

だが前にも書いたとおり土地は誰のモノでもなかった。

 

ムラは「割り替え」によって土地を耕すモノを決め、そして何年かごとに「くじ引き」で担当者を決め直していた。

 

明治以前のムラの土地はムラの「総有(そうゆう)」であり、決して個人のモノではなかったのである。

 

そういうわけだからどこの土地が誰のモノであるということはそれまでハッキリしていなかったのであるが、それが地租改正でハッキリさせる事となってしまった。

 

何せ地租を課す相手が誰だかハッキリしないと言うのは具合が悪い。

 

ある条件下では誰に責任者を決定しても、責任者を決定すれさえすれば問題は解決されると言う有名な定理(コースの定理)がある。

 

がそんなことを知ってか知らずか、とにかく所有者がハッキリしないムラの農地は「今耕している者が所有者である」ということになった。

 

そういうわけでムラの農民は、その時点で耕していたあちこちの田んぼや畠を、そのまま個人的に所有することとなった。

 

今でも田舎に行けば「どうしてこんなに方々に小さな農地を持っているのだろうか?」というような不思議な土地所有(分散所有)が残っている地域がある。

 

それは明治初期の地租改正によって「割り替え」で一時的に耕していた土地がそのままその農民の所有となったからであるという。

 

もちろんそれでは不便だから戦後土地の区画整理が行われ、次第に農地は統合されるようになってきているのではあるが。

 

これを「近代的土地所有制度」というが、個人という概念が確立しそれに付随する形で「私的所有」が広まった西欧とはまるで異なり、日本では「租税を徴収するために責任者を決める」という目的で近代的土地所有が始まったわけである

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