戦後の農業政策
戦後の占領軍による農地改革によって、戦前の中農標準化によって達成された2−3ヘクタール規模の農業はズタズタになった。
大地主でも1ヘクタール以上の所有は認められず、その結果日本の農業は0.5ヘクタール未満の狭い土地を家族だけで耕すという非常に非効率な生産を強いられることとなった。
もちろん農地改革には、土地を耕さない不在地主から土地を取り上げ、地主が小作をこき使って儲けるという「東北型農業構造」を是正する効果はあったが、しかしそれは非常に政治的な判断であり、経済や経営効率から見るととんでもない「破壊」であった。
戦前の「中農標準化」は、何も政策で無理矢理起こされたモノではない。
社会的な条件や環境的な条件や経済的な条件から淘汰されて選択された、効率的な経営規模であったのだ。
明治の初めの地租改正により土地が個人のモノとなり、そして農家が納める税金が物納の年貢から金納の地租に変わったことによって起こされた、制度に非常に適したカタチであったのだ。
ところがそれがまた、明治維新の頃のカタチに引き戻された。
お陰で去年まで物納で済んでいた小作もまた、作物を売って金を得、それで税金を支払わねばならないと言うことになった。
農家は納税のためにまた換金作物の生産を中心に農業を行わねばならなくなり、結局日本の農家はまた「米偏重農業」を始めなければならなくなった。
もちろん終戦直後の日本農業には、戦争で破壊された工業を再興するために食糧の増産と自給が要求されていた。
戦争による被害で農業生産はもちろん極度に落ち込んでいて、なんと当時の日本の輸入の約半分が農産物で占められると言う有様であったのだ。
お陰で工業の再建もままならず、戦後十年近くたっても国民一人当たりの一日の摂取カロリーが二千キロカロリー以下という惨憺たる有様であった。
(因みに戦前の1930年代の水準は、2,600キロカロリーであった)つまり「工業が振るわない」→「外貨が手に入らない」→「農産物が輸入できない」→「自前で作るしかない」という、明治三十年代の状況にまた戻ってしまったのである。