江戸時代の日本農業
江戸時代の日本の農村の形はまさに「千差万別」であった。
農民の身分も土地持ちの「本百姓(ほんびゃくしょう)」から、土地無し農民である「水呑(みずのみ)」まで様々な身分があった。
本百姓は領主にたいして年貢を納める義務を持つ。
雑役やその他の労働力を提供する義務を持つ。
そしてその代わりに土地の所有を許され、農民の中でも身分の高い存在として認められた。
今でも田舎へ行けば「豪農」が立てた大きな屋敷や蔵などが残っているが、それは本百姓の持ち物であった。
水呑は差別され、一人前の百姓とは認められなかった。
だがもちろん農業をするにも、向いている土地と向いていない土地がある。
農業をするにも向いている人間と、そうでない人間がいる。
だから人の移動や土地所有権の移転が禁じられていたはずの江戸時代においても、土地は有能な農家の手に渡り、人は三都などの都市に流出することが多かった。
そういうわけでたびたび幕府は農民に帰農を命じたり、土地の所有権の移転を認めず、身分制度の維持に骨を折らねばならなかった。
しかしそういう移動はあったものの、特に農業に向いているわけではない普通のムラではやはり、ヨーロッパの農村と同じく土地の「割り替え」が行われ、そして村人が共同で灌漑作業や農作業を行っていた。
割り替えとは以前にも書いたとおり、ムラの全部の農地を全農家に行き渡るように細かく分割し、肥沃度や取水条件を勘案して毎年同じ程度の収穫を上げれるように組み合わせる方法である。
そして誰がどこを耕して農業をするかを何年かに一度「くじ引き」などで決めるというやり方である。
何年かに一度そうしてくじ引きをやり直すのは、メンバーの数が変わったり、災害などで耕地の条件が変わったりするからである。
そうしてムラのメンバーとしてムラを運営し共同作業に参加することを条件に村人を対等に扱い、そしてグループ的な農業経営で生産インセンティブを保っていたわけである。
だから当時の土地の所有観は以前にも書いたとおり三層構造をなし、・うわつち(上土:田畑の表土)はそれを耕す農民のもの。
・なかつち(中土:田畑全体)はムラのもの。
・したつち(下土:大地)は天下のもの。
という所有意識であったという。
そういうわけで村人は「東の田んぼに水を入れ、南の端の畑を耕し、北の畠の収穫を行う」というように、ムラのあちこちに散在する自分の農地を耕していた。
今でも田舎に行けばそうして耕地を分散して所有しているムラが残っている所があるが、それは実は江戸時代の「割り替え」制度で耕していた土地が明治維新の頃の「地租改正」によって固定化されたものなのだそうだ。
明治維新の地租改正は、江戸時代のそういった重層的な土地所有観を覆し、そして換金作物の栽培を農村に課すものであった。