複雑になった農地所有のカタチと、二極分化
地租改正によって、それまで小作であった農民は、自分の農地を手に入れた。
ところが農地を持つと言うことは、税金を納めねばならないと言うことである。
今まで地主に、作ったモノを上納しておれば済んでいたものが、市場動向などに敏感になったり、商品作物作りに新たに挑まなければならなくなった。
ところがそういうのが面倒な農民は自分の土地を手放し、小作に逆戻りしたり、あるいは街へ出て、工場労働者として働きだした。
もちろんこの逆流は、それほど単純なモノでもなかった。
おかげで農民の農地所有形態には、
- ▼自分の土地をもっぱら自分で耕して生産する「自作農」、
- ▼土地なし農民が地主から土地を借りて小作する「小作農」、
- ▼自分の土地も耕すし他人の土地も耕して耕作する「自作小作農」、
- ▼自分の土地は小作に出して自分はもっぱら他人の土地を耕す「小作自作農」
等々、一体誰が地主で誰が小作なのかハッキリしないような複雑な耕作形態もたくさん出現した。
そうして大正期(第一次世界大戦後)には経営規模0.5ha未満の小農は淘汰され、一方3ha以上の経営規模の大農も減り、日本では1〜2ha規模の中農が大半を占めるという農業形態が定着した。
全国的にも農家の戸数はやや減少し、東北を除いて大地主戸数は三分の一程度にまで減少した。
これを農業の「中農標準化」というが、つまり大正時代には既にもう、ある程度の規模をもって農業が行われていたわけである。
(「日本農業のあゆみ」117ページ参照)というのも関東や近畿では産業化が進み、小農は無理して農業を続けるより土地を手放して工場で働いたり商売を始めたりするという選択をしたからである。
また大農は機会費用によって高騰した労賃で農業労働者を雇っても採算がとりづらく、経営規模を縮小したからである。
ところが一方東北地方では、他にめぼしい産業が起こらず、地域的な人口増も加わって農業戸数も増えた(!)。
農業労働者の労賃も下がり小作料率も高騰したから、大農経営でも十分採算がとれ、お陰で他の地域では三分の一まで減少した大地主がそのまま大地主として存在し続けた。
言ってみれば当時の東北地方は、現在の東南アジアのような発展途上国のような経済で、ネルソンの「低所得水準の罠」にはまっていたと言えよう。
そういうわけで日本の農業は商品経済に対応した農業(近畿型)と、商品経済に対応できずに途上国型化した農業(東北型)に二極分化することになってしまった。
そしてやがて東北では悲惨な小作争議が頻発し、それが遠因となって2.26事件や5.15事件を引き起こし、やがて日本は絶望的な戦争へと進んで行くのであった。
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