すでに崩壊していた、日本農業

だがしかし1937年の日中戦争勃発を境に、暗雲が漂い始めた。

 

朝鮮・台湾ともに米の生産量が減少し、そしてまた米不足が始まった。

 

だから政府は慌てて食糧増産計画を決定し、国民を飢えさせず、かつ、戦争を遂行できるだけの食糧を大量生産しようと試みたのだが、まるで上手く事は運ばなかった。

 

というのもこの頃にはもう農家は多様化し、地主や小作や兼業農家といった様々な形態で農業が行われ、以前のように「ムラぐるみ」では農業が行えない状況に陥っていたのである。

 

この頃はさっきも言ったように、まだ動力機械が普及していない時代であるから、「ムラぐるみ」で行う作業というのは残っていたが、農家の資産が不揃いなら共同作業はなかなか上手くいくはずがない。

 

誰それが得した、誰それが損した、、そういう嫉妬やねたみで作業が滞る。

 

それに何しろ男手は戦争と工場に取られているのだから、一家の大黒柱が兵役についている家では田植えも満足にできやしない。

 

だから政府は「国家総動員法」に基づいて街の労働力を農地に動員して農作業に充てようと試みたが、徴用された労働力は軍需部門へ優先的に動員され、農業をやったことのないようなあまり効率的でない労働力しか農作業に充てることができなかった。

 


そうこうしているうちに食糧生産力はさらに落ちた。

 

仕方がないので政府はとうとう「農地統制」「農業統制」によって、生産量を確保しようとし始めた。

 

すなわちまず市町村に「農地委員会」なるものを設置し、小作人や小作権を保護することで農業労働力を確保しようと試みた(1938年:昭和13年農地調整法)。

 

農地の転売なども地区の農地委員会の審査を受けなければならず、貴重な農地が減らないように監視し始めた。

 

さらに小作料を「小作統制令(1939年)」によって政府が統制し、地主が勝手に小作料を値上げしないように監視した。

 

1941年には「臨時農地価格統制令」によって、農地価格の上昇も抑え始め、同時に国家的な米穀管理体制を全国に敷き始めた。

 

すなわち「食糧管理制度(食管)」の導入である。

 

食管制度は自家消費分を除いた米や麦を全て国が買い上げ、国民に配給するというモノで、国民は「米穀通帳(なつかし〜)」を持って米屋に行かないと米が買えなくなった。

 

そしてその代金は小作人保護のため、地主を通さず直接小作に支払われたのだが、その額は年々増加しついには地主の取り分を大幅に上回る代金が支払われるようになった。

 

つまり地主にたくさん代金を支払っても生産力は増大しないから、実際に米や麦を作っている小作にインセンティブを与えようと言うことであったのだが、この体制が威力を発揮し始めたのは皮肉にも戦時中ではなく、戦後になってからであった

 

そして「食糧管理体制」によって、日本農業はまたまた米偏重農業への度合いを深めていくことになった