世界大恐慌と東北の窮状

1929年、ニューヨークの証券取引所で株価の大暴落が起こった。

 

「世界恐慌」である。

 

第一次世界大戦後のヨーロッパへの物資の輸出によって急速にのびたアメリカ経済は、このバブルの崩壊でいっぺんにペシャンコになった。

 

マンハッタンの摩天楼群(背の高いビル)のいくつかは建設が中途のまま放棄され、そしてスラム化した。

 

その影響はドミノ倒しのように世界中に広まり、対アメリカ貿易で外貨を稼いでいた日本経済にも大きな影響が及んだ。

 

貿易を生業としていた輸出関連産業は軒並み赤字となり、工場の閉鎖や従業員の解雇が毎日のように行われた。

 

解雇された従業員で農村を田舎に持つ者は帰農し、そして農村で世界経済の行方を固唾をのんで見守った。

 

アメリカのバブル崩壊はもちろんアメリカに住む人間の購買力を一気に低迷させ、それはすぐに消費減につながったから、アメリカの生産物の価格は下がり、その分が輸出に回された。

 


しかしヨーロッパ諸国は「そんな安い輸出品を輸入したらヨーロッパの経済は破壊されてしまう!」とばかりに輸入品に高率の関税をかけたり輸入制限を行って、自国の産業を保護するだけの政策に出た。

 

これがいわゆる「ブロック経済化」というやつで、つまり「国内市場の閉鎖政策」を各国が取り始めたのである。

 

お陰で満州など外地(植民地)で大量に生産していた米や麦、そして絹などの農産品が行き場を失い、本土である日本に逆流し始めた。

 

米価市場は一気に暴落し、人絹(ナイロンなどの絹代用品)産業の勃興によって絹のアメリカへの輸出も振るわなくなった。

 

お陰で農家の収入は、自作・小作を問わず半減した。

 

ヒドいところでは三分の一になった。

 

そしてその影響で農家は肥料が買えなくなったから生産性も落ち、さらに収入が減った。

 

このころから農家はとうとう農業では生活費を捻出できなくなり(ということはそれまでは食えていたと言うことか?)、農業所得によって生活費をまかなうという「小農経営の原則」は崩壊した。

 

そして収入が半減したということは、地主に納められる小作料も減り、その滞納も激増すると言うことを意味していたから、地主層の窮乏もヒドいものとなった。

 

特に養蚕と稲作の両方を行っていた地域では、作っていた農産品の価格が全て壊滅的に暴落するという憂き目にあったから、これらの地域の地主の収入も恐慌によって三分の一にまで落ち込んだ。

 

近畿地方を中心とする大地主は、1920年代の小作争議による小作料低下を受けて既に農業経営と少し距離を置くようになっていたので、恐慌期にはさらにその傾向が強まり小作との関係は薄れる方向にあった。

 

だが一方逆に東北・北陸の大地主はこの恐慌につけこんで、小作料を値上げし始めた。

 

そしてそれが飲めない小作からは農地を取り返し、地主自らが耕作しようとし始めた。

 

というのも恐慌以前は畑作より養蚕の方が生産性が高かったために、地主達の多くは水田などを小作に出し、自分たちはもっぱら桑畑で桑の葉を作り、それを元にカイコを飼ったり養蚕を行っている小作に売ったりして収入を得ていたからである。

 

それがナイロン(今で言えばポリエステルですか)などの開発と恐慌による輸出減の挟み撃ちにあって生糸が商売にならなくなった。

 

そのとたん、彼らは手のひらを返すように自分たちで耕作をしようとし始めたのだが、しかしその時には肥沃な土地はみんな小作に出してしまっていたから、その土地を返せ!と言いだしたのである。

広告


このエントリーをはてなブックマークに追加



売れてます