地主から小作料値下げを勝ち取った西日本
ムラで農業をやるより、街で働く方が収入が多くなってしまった。
その原因を考えた結果、農民が思いついたのが、小作料であった。
「やっぱりちょっと小作料が高すぎるんじゃないか?ワシらがいくら働いても地主さんに払う小作料が高けりゃ手元に金が残るはずも無い。
確かに土地を借りて小作しているわけだから小作料を払うのは仕方がないにしても、儲けを全部持ってイカレたらたまらん」だがムラの中の地主にそれは言いにくい。
ムラの中の地主は何十年何百年とムラで一緒に暮らしてきた者の子孫であり、言ってみれば身内である。
それに当時の土地所有関係は、他人の土地を小作しながら自分の土地は他人に貸していたりして、非常に複雑な賃借関係であった。
だから、小作料を引き下げろと他人に言えば、今度は自分の持っている土地の小作料も引き下げざるを得なくなる。
だから村人たちの不満の矛先は次第に「ムラ人でない地主」や「ムラにいない不在地主」に対して向けられることとなった。
ムラで農業をせず、ムラの共同作業にも参加せず、収穫時期になったらヒョコヒョコと街からやってきて小作料だけを集めて帰る、そんな「不在地主」達にターゲットを絞り、農民たちは小作料率の引き下げを要求しはじめた。
これを「小作争議」というが、大正時代(1920年代)には西日本、特に大阪・兵庫を中心に実に年間千件から二千件もの小作争議が発生した。
農家は大きなスクラムを組み、農業を手広く産業として営んでいた大地主や財閥に対し、ストを行ったり団交を行ったりして争議を繰り広げた。
お陰で小作料は二割から三割も削減され、三井や三菱と言った財閥でさえも「割に合わん」とばかりにあちこちの大農地を手放し、代わりに満州や台湾などに投資を始めた。
小作争議の頻発は官吏や警察の介入などによって1930年代には沈静化し始めたが、しかしその時にはもうすでに争議は充分成果を上げており、農工間格差はかなり縮まっていた。
そうして西日本の農家は小作争議を起こす理由を失ったのだが、逆にそのあと悲惨な東北の小作争議が頻発し出すのであった。