明治農法の実際

明治農法のキーワードは「畜力耕・乾田化・金肥施肥」だった。

 

つまり1)家畜によって田畑を深く耕し、中耕作物生産や冷害に強い田畑を作る(収量の安定化)。

 

2)水田を乾田化することによって裏作を可能にし、土地の利用率を上げる(利用率アップによる増産)。

 

3)肥料を外部から導入して、反収を上げる(反収増による増産)。

 

ということであった。

 

「畜力耕」にはまず様々な犁の開発と「馬耕(馬による耕うん)」技術の導入が図られた。

 

ヨーロッパでは重量犁が何百年も前から開発され、それを動力機械でガリガリと土地を掘り起こしていたが、日本では鉄も動力機械もまだ貴重な存在であった。

 

そしてそれがあったとしても、アップダウンが激しい地形と大きさも形もまちまちな日本の田んぼには、殆ど何の役にも立たなかった。

 

だから日本は日本の地形に合った犁と耕耘方法を開発せねばならなかったのだが、しかしどうもうまくいかず結局人力を用いて耕したり除草したりするという従来の方法に落ち着いた。

 


以前にも書いたとおり、元々土地を深く耕すというのは中耕作物(カブや根菜)を作りそれで馬や牛を増やすためであり、そしてその牛や馬の糞で肥料を賄うことによって地力を維持・増進させ農産物を増産する、といった形のサイクルに必要なものであった。

 

それは元々畜肉や畜産物を重要な食料としていたヨーロッパには確かに適した方法であり、生産性を大幅に上昇させるモノであった。

 

ところが日本では畜産物(チーズやバター)を食べる習慣がなくそういう需要が都市部を除いて殆どなかったから、ただ田んぼを耕すためにだけ牛を飼ったり馬を飼ったりするわけである。

 

田んぼを深く耕すと冷害に強い田んぼになる、それはよくわかっていたが、そのためだけに牛や馬を飼うのはコストがかかりすぎた。

 

そういうわけで「畜力耕」は結局あまり普及しなかった。

 

(今でも冷害時の凶作は田んぼの浅耕が大きな要因だとされている)

さて次に明治農法で求められたのは、水田を「乾田化」することであった。

 

乾田とは、水を抜いたときに完全に田んぼが干上がる状態になるように田んぼを作ると言うことである。

 

完全に水が抜けない田んぼは「湿田(しつでん)」と呼ばれていたが、実は湿田ではなかなか二毛作ができなかったのである。

 

水稲には水田が適しており、麦作や綿作には畠が適している。

 

だから稲を植えるときには水田で、麦を植えるときには畠の状態に田んぼを変えることが必要だった。

 

そこで水田の排水が完璧にできるように水平を保ちながら微妙に傾斜をつけ、水を張れば水田として使え水を抜けば畑として使えるというふうに田んぼを作ることによって裏作を可能にした。

 

裏作では主に大麦や小麦が作られたが、大麦は牛馬などの餌となりその糞は肥料となった。

 

小麦はもちろん人間の食用となり、そして米を食えない貧しい者の腹の足し(?)になった。

 

そうして土地の利用率のアップによる増産が図られたわけである。