不在地主と小作争議
江戸時代までの自給自足的ムラ農業の崩壊と農法の進歩は、ムラに住む農民の意識にも大きな変革をもたらした。
そして国民学校などの教育の義務化や、普通選挙実施(大正14年)などによる庶民の地位の向上もそれに拍車をかけた。
あちこちのムラでは時代の変化や意識の変化に伴い「農家小組合」と呼ばれる協同組合が結成され、共同作業や共同購入、そして農産物の共同販売や金融面での協力が積極的に始まった。
これらの農家の運動はまたたくまに広がり、日本全国でやく三十万もの農家小組合が結成された。
だがそうした教育の広がりは、農家と農家でない者との比較を容易にした。
明治維新によって職業の自由が認められ、農民でも自由に街で働けるようになったお陰でムラから出て街で働く者も増え、町の同年代の者との収入の隔たりも次第に明らかになっていった。
農業と他産業の生産性格差による収入の違いや嫁不足は、なにも戦後に始まった問題ではない。
すでに大正時代にはムラから青年や女性がドンドン街に流出しはじめ、そして「農家の嫁不足問題」が大きな問題として浮上し始めていたのである。
「なぜ街で働くのとムラで農業をしているのとで、こんなに差ができるのだろうか?」ムラに残った者たちは、その原因がどこにあるのか突き止めようと躍起になった。
問題が解決されなければ街の人間に置いてきぼりを喰らう。
嫁も来なければ跡継ぎもままならない。
そういうわけでアレコレ考えてみた結果、その答えは結局地主のせいだと言うことになった。