農業だけの偏った産業発展が、血で血を洗う小作争議を呼んだ!

インドネシアの話や日本の明治30年代の話のところでも書いたが、「ある地域が文明化し生産力が増大すると人口が爆発する」のである。

 

世の中が少し明るくなりそして物資が豊富になると、人間に限らず生命というのは大繁殖を始めるのだ。

 

それはもちろん何も東北地方に限った話ではないが、しかし関東や近畿と比べて東北地方には大きなタイム・ラグ(時間的な遅れ)があった。

 

そしてそれは関東や近畿の文明化とは違い、非常に偏ったものであった。

 

つまり東北六県の人口増加は産業の発達を背景としない人口増加であり、工業や商業の発達なしの途上国型の人口増加であったのだ!だから東北地方では人口が増加してもそれを吸収するだけの産業がなく、土地なし農民があふれることとなった。

 

他の地域の小作争議の影響で不在地主が減り、土地が在村地主のモノとなっていたことも、地主の影響力を増大させ小作料の引き上げに拍車をかけた。

 

もちろんそこで若者や女性がドンドン都会に流出したり或いは小作人不足の地域に出稼ぎに出れば、それはそれなりに均衡がとれたはずであったのだ。

 

が、まだ前近代的な考えが根強かった東北六県では残念ながらそういう行動は見られず、東北の労働市場は都市に向けて開かれないままであった。

 


「足があるのだから、自分で歩いてきてください。

 

」作家の邱永漢さんは結婚前、奥さんを実家に連れ戻されたときに奥さんになる女性にそう伝えるように頼んだそうだが、足があっても東北の若者は親やムラの掟のようなものに枷(かせ)をはめられ、なかなか都会に出ることができなかったのだ。

 

東北の、農業だけの偏った産業発展と、それにともなう人口の大増加の矛盾

 

そしてその矛盾をさらに拡大する「ムラ依存的・家族依存的価値観(言い換えれば「個」の不確立と自助努力精神の欠如)」と、無意識的な自己正当化のためだけの「農本主義」。

 

そういったとんでもない自己矛盾の中で東北の農家がのたうち回っているうちにとうとうあの1929年の大恐慌が世界を襲い、その影響で満州や台湾の農産物価格が暴落した。

 

外貨を稼ぐために輸出されていた米や麦などの穀物が、アメリカやヨーロッパの不況のせいで輸出不可能になり、それがなんとあろうことか日本本土に逆流し始めたのである!地主は小作に対して土地を返すように請求し、そして零細小作人はその土地を奪われては生きていけないと小作争議を起こし始めた。

 

そして東北の小作争議は、まさに血を血で洗う激烈な争いとなったのである

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