森林の所有と里山・入会地の消滅

さてそうやって明治政府は農地(土地)の所有を財産としての分配ではなく、租税徴収責任者を決めるという意味で認定した。

 

すなわちその時にその土地を耕している者を土地の所有者(つまり地租の支払い責任者)とし、その所有者から地租を集めることとした。

 

そしてその一方で、所有者の決まらない土地は国有とした

 

誰の持ち物か証明できない山林・森林は国有化され、特に優秀な山林は皇室の持ち物となった。

 

もちろんそこから得られる材木や産物は全て国家や皇室の所有となり、国や皇室の財政を潤した。

 

西日本の場合は山林開発が盛んだったために土地所有関係がハッキリしていたので、その結果山林の私有が広く認められたが、東日本ではそういう権利関係に疎く、対照的に森林の約80%が国有・或いは皇室所有となった。

 

今でも東日本には国有林が多いが、それは明治の始めにそういう風に所有者が決定されたからである。

 


しかしその結果、多くの農民は山林から排除されることとなった。

 

昨日まで気軽に薪を取りに入れた山には仕切が立ち、「国有地だから許可なく入ってはならない」というお達しが下された。

 

そしてまた堆肥を作るためや水田に入れるために、雑草を刈りに里山に入るのも難しくなった。

 

ムラで共同で利用していた里山や入会地(いりあいち)もそうして誰か他人の持ち物となり、それを利用するにも了解やら金品が要るようになった。

 

お陰で里山を利用し割り替えによって平等に資源を分配する「一見平和な」自給自足的なムラ農業は崩壊し、肥料や金品をムラの外部との交換によって得なければならないような農業が始まった。

 

地租は金銭で納めねばならなかったこともあり、そうして日本中の農村は自給自足風経済から貨幣を中心とする市場経済への参加を余儀なくされだした。

 

地租改正という制度はあくまで税金を徴収する制度であって、土地の利用を勘案した制度ではなかったのである

 

お陰で日本の草山や里山には木々が生い茂るようになり洪水は減ったが、農産物が大量に市場に出回るようになったお陰で、その後日本は大幅なデフレに見舞われることとなった。

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