商品経済の発達と自由式農業の発達
18世紀のヨーロッパは、商品経済が徐々に発展して行った時代である。
地理上の発見(大航海時代)によって中近東や東洋の様々な産物を、以前とは比較にならないくらい容易に手に入れることができるようになったし、アメリカ大陸から渡来した荒れ地でも育つ貴重な新作物(ジャガイモやトマトやトウモロコシ)が普及していったから、取り引きされる商品の種類や数量が何倍も増えた。
だから商品経済が発達しだしたのである。
そうして貿易や交易によって都市は潤い、都市の人口は増えた。
都市人口が増えれば、農作物に対する需要も増える。
だから都市に産物を供給する都市周辺の農業生産地では生産を専門化し、多様な都市の食糧需要に応えた始めた。
都市に近い場所では野菜などが栽培され、少し離れた場所ではイモや穀物などが専門的に増産され始めた。
三圃式や穀草式でしか農業が営めなかったはずの時代に、都市近郊の生産地でなぜそんなことができたかと言えば、都市近郊農地では都市から出る下肥(かひ)を安価に手に入れることができたからである。
因みに下肥とは馬糞など糞尿の肥料のことで、日本の場合は無畜農業なので人糞が用いられた。
都市はたいてい大きな河の河口にあるから灌漑には困らなかったし、肥料だって安く手に入ったのだから、都市近郊の生産者は自由に作物を作ることができた。
だからこういう農業を特に「自由式農業」などと呼ぶ。
そうして都市近郊農地では都市で高く売れる産物をいち早く導入して大儲けすることができるようになった。
で農産物で大儲けできるようになったら領主たちは目の色を変えた。
領主は領土の農業を伝統的な三圃式の農業から生産性の高い農法に変え、生産力を上げて目新しい新奇な新産物を手に入れたり、或いは勢力を拡大するためのインセンティブを持ち始めたのだ。
そしてこの領主たちの行動は、伝統的なムラ農業を破壊し始めた。
羊毛を取るために農地を囲い込んで羊牧場にしたり、商品作物生産のために多くの小作契約を破棄したりしたので、伝統的なムラ農業は次第に立ち行かなくなっていった。
そうして土地を自分で所有する自営富裕農民と、貿易商などの特権商人がどんどん勢力を伸ばし始めたわけである。