食糧管理法の成立
1929年のニューヨークの株価暴落をキッカケに始まった「世界恐慌」と「農業恐慌」は、軍事力増強のための重化学工業への投資によって、ようやく沈静化した。
娘を売ったり奉公に出したりする東北の農家も減り、農家の生活も落ち着いた。
だがそれまでの軽工業での出稼ぎの主役は主に「女性」であったのに対し、昭和初期の出稼ぎは農家の働き手である「男性」であった。
つまり新しい就業機会というのは鉄砲を作ったり戦車を作ったり軍艦を造ったりという仕事であったから、今までのように女性が働きにでるわけではなく、一家の大黒柱が就労したのである。
そうなると当然農業の生産性は下がる。
何せ今のようにガソリンで動く動力機械が簡単に手に入るわけではない。
ヤン坊もマー坊も赤いトラクターもまだ存在しなかった。
発電量もまだ小さかったし、石油も希少な資源であった。
中近東で巨大な石油鉱脈が発掘され始めたのは、戦後のことなのである。
世界最速を誇った「零戦」ですら、工場から飛行場まで牛で引っ張っていったという時代なのである。
だから農業労働力の中心であった男性を工場に出稼ぎに出すということは、ただちに農業生産の低下を招くこととなった。
だがそうして国内の生産量が減っても、朝鮮半島や台湾などから米は移入できた。
当時は、このあたりの土地は日本の勢力下にあったので、輸入ではなく移入という。
東南アジアから「外米(がいまい)」と呼ばれる米も、外貨さえあれば輸入できた(南方米ともいう)。
そういうわけで農業の兼業化が進んでも、食糧供給はとりあえず賄えていた。