泰西(ヨーロッパ)農法と明治農法

増え続ける人口に食料を供給するために、明治政府は明治維新以来ヨーロッパの進んだ農法を導入し、各地に農学校を建ててそれを広めようとしていた。

 

当時のヨーロッパは以前にも紹介したとおり、様々な面で進歩的であり、かつまた産業的であった。

 

だがしかしヨーロッパと日本とでは、気候や農業がまるで違う。

 

だから招聘した農学者フェスカは当時の日本農業の特徴を「浅耕・排水不良・少肥」(深く耕さない・排水が良くない・肥料が少ない)と的確に表現したが、しかしヨーロッパ流の方法(重量犁や機械で深く耕し、畜舎で大量に飼っている家畜の糞で施肥する)を行うための前提となる条件はまるで整わなかった。

 

そういうわけでヨーロッパの農法(これを泰西農法と呼ぶ)をそのままの形で日本に持ち込むことはできなかった。

 

そこで明治政府は仕方なく方針を変え、明治14年には全国から千人以上の「老農」を集めて「全国農談会」を開き、在来農法の発掘と整理に取りかかった。

 

それは作物別に有能な農民を集めて栽培方法を検討し、その中の優れた技法をまた各地の農民が地元に持ち帰ることで全国の生産性を高めようと言う狙いで行われたもので、言ってみれば「三人よれば文殊の知恵」式の農法開発であった。

 


ここでもちろん目標となったのは農産物の「増産」であり、そして米の供給力アップであったが、そのためフェスカの指摘した「浅耕・排水不良・少肥」の改善・克服が求められた。

 

そんな中で「明治農法」はできあがった。

 

明治農法はそれまでの農業技術の集大成であり、そしてフェスカの指摘した「浅耕・排水不良・少肥」を解決して農業生産を増やすものであった。

 

明治農法のキーワードは「畜力耕・乾田化・金肥施肥」で、つまり1)家畜によって田畑を深く耕し、中耕作物生産や冷害に強い田畑を作る(収量の安定化)。

 

2)水田を乾田化することによって裏作を可能にし、土地の利用率を上げる(利用率アップによる増産)。

 

3)肥料を外部から導入して、反収を上げる(反収増による増産)。

 

ということであった。

 

しかしヨーロッパは乾燥気候であり、そして麦作などを中心とした有畜農業であったのに対し、日本は湿潤気候であり、稲作を中心とした無畜農業なのであった。

 

このれによって明治農業には、克服すべきことがいくつかあった。

広告


このエントリーをはてなブックマークに追加



売れてます