日本の農民身分と小農の誕生
江戸時代の日本の人口は、約三千万人くらいであった。
もちろん江戸時代の初期には「新田開発」があり、食糧の増産が達成されたから人口は急激に増えたが、元禄の時代を境に安定期に入り、約二百年にわたって非常に安定した人口動態であった。
江戸・大坂・京都は「三都」と呼ばれるが、当時の江戸の人口は約百万人で、世界最大の都市であった。
そして天下の米所(物流の中心地)の大坂(大阪)には五十万人の人が住み、そして中小企業の発達した京都には三四十万人の人間が住んでいた。
日本はその時代から、都市に人口が集まる傾向があり、その周縁に農村・山村があるという形で人口が分布していたのである。
さて農民という身分は昔からあるような気がするが、実は太閤秀吉が「兵農分離」の政策を推し進めた結果生まれた身分である。
そして土地の所有者も「太閤検地」によって所有者と認められ、「本百姓」となった。
それが徳川時代にさらに徹底されたわけである。
それ以前は農民に対してハッキリした身分というものはなかった。
幕府や朝廷に対して何らかの貢献をすれば、農民であっても苗字をもらえ武士と同様の扱いを受けた。
たとえば「羽賀」という苗字は、源頼朝に働きを認められ「褒賞として何が欲しいか」ときかれたときに、その農民が「苗字が欲しい」と言った時にできたという説がある。
その時「そんなものが欲しいのか、バカだなあ」と頼朝が言った言葉の「バカ」がそのまま「羽賀」になったというのである。
だから江戸以前には農民であっても苗字を持つ者もいたし、刀を持つ者もいた。
農業をしながら一旦戦争が始まれば、兵隊に早変わりするというのが「普通」だった,これは世界的にも結構普通の話である。
それを専門の軍隊を養成することによって天下を取ったのが、織田信長らの戦国武将であったのだ。
天下平定後、太閤秀吉は兵農分離の際に「刀狩り」を行って農民から武器を取り上げたが、それは当時は農民でもちゃんと刀を持っていたということであろう。
つまり秀吉以前の日本の身分というのはそんな感じで貴族以外は非常に流動的であり、移動や転職も盛んに行われていたのである。
そしてそれが豊臣秀吉と徳川家康によって身分がハッキリと確立され、移動が禁じられた。
そういうわけで江戸時代に「百姓」と呼ばれる「小農」が誕生したのである。