読み書きそろばんなどできなくともよかった

産業革命というのは、現代に生きる我々にとっては何がスゴいことなのか、かなりわかりにくい。

 

なぜ人々はそんなに資本を集中して金儲けに狂奔し、そしてそれがなぜイギリスだけに留まらず、徐々に全世界に広まっていったのか。

 

不思議な話である。

 

だが我々はよく錯覚を起こす。

 

今の人間も何百年前の人間も、同じ前提と同じ価値観で行動しているようなそんな間違いをすぐ犯す。

 

パソコンを毎日のように使い、インターネットを情報源として利用するのが当たり前になると、誰だって同じように生活しているような錯覚を起こすのと同じである。

 

だがしかしたった五十年前にはパソコンはもちろんテレビすらも普及していなかったし、高等学校へ行く人間だって少なかったのである。

 

そして世界では百数十年前には識字率も低かったし、九九どころか二十までしか数を数えられない人だって多かったのだ。

 


近年まではカトリックは神父が聖書を読み聞かせ、決して信徒自身で聖書を読むことを禁じていた。

 

そう言う風に文書を読む力があやふやな人間に聖書を渡して勝手に解釈されたら教会も商売が上がったりだから、そういうことをしていた。

 

もちろんそれは聖職者が俗人を差別する目的もあったのだろうが、実際に中世では、そのような「読み・書き・そろばん」能力は一部の知識人だけが持っていればよく、社会はそのような能力が全員にあることを前提とはしていなかった。

 

教会の神父やイギリス貴族のように国民を指揮する立場の特権階級さえ読み書きそろばんができればよく、その他の人間はそれらの者に従えばよい。

 

それがつまり中世の考えであったのだ。

 

現代のように国民全てに教育を施し、社会参加者全員にそのような能力を求めだしたのは産業革命以降の話であり、先進国でも本当につい最近、つまりここ百年から二百年間の話なのである。

 

ではなぜ中世ではいらなかったはずのそのような知識と能力が、近代社会では必要になったのか?

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