エクスペリエンスだって陳腐化する

エクスペリエンス・バリュー(経験価値)とは、農産物・鉱物や商品(工業製品)やサービスとは異なった、新しい第四の経済価値であった。

 

農産物や鉱物、商品、そしてサービスまでがコモディティ化し、これらの販売価格が低迷しても、エクスペリエンスは高付加価値を生み出す新しい源泉であった。

 

だがエクスペリエンスも、従来の経済価値と同様にコモディティ化していく。

 

たとえば延々同じ算数の授業を繰り返して受ければ飽きてくる。

 

どんなに面白い講義であっても、内容が毎度毎度九九ばかりなら当然飽きてしまう。

 

どんなにあるジェットコースターが好きだと言っても、年がら年中同じ遊園地の同じジェットコースターに乗って喜んでいるお客は、まずいない。

 

どんなに感動的な絵でも、ずっとそれだけを鑑賞しつづければ、最初にその絵と出会った時の感動も、だんだん薄れてしまう。

 

脱日常的体験だって、毎週のように体験していれば、そのうち日常的な経験になってしまう。

 

つまりエクスペリエンスは、いままでの経済価値とは異なった性質を持つモノではあるが、陳腐化やコモディティ化といった宿命からは、逃れえていないのである。

 

それどころかエクスペリエンスは、それ自身の持つ性質によって、何もしないのにどんどんありふれたものとなりコモディティ化する。

 

農産物や商品の場合は、生産技術が向上し、購買需要をはるかに上回る生産が容易になったため、価格が低位安定化(コモディティ化)した。

 

サービスはサービス方法のマニュアル化が進み、サービスを行う人材の養成が簡単になり、サービスが大量生産できるようになったためにコモディティ化した。

 

しかしエクスペリエンスという価値は、同じモノをずっと提供するだけで、「何もしないのに」陳腐化してしまう。

 

算数の授業がつまらなくなったのは、九九を覚えてしまったからかも知れないし、あるいは講師の同じダジャレに飽きてしまったのかもしれない。

 

ジェットコースターがつまらなくなったのは、その速度や変化に身体が慣れ、面白い不意打ちを喰らわなくなってしまったからかも。

 

同じ絵を見ても最初の感動がなくなったのは、そのイメージが脳裏に残り、既知のモノとなってしまったから。

 

そして脱日常的体験も繰り返しによって、当たり前の体験になってしまったから。

 


エクスペリエンスが陳腐化するのは、顧客が変身したから

エクスペリエンスというのは、それを体験した人間の記憶や思い出として残るモノであるから、同一のエクスペリエンスでは、新しい記憶や思い出を創造するのが難しい。

 

だからこそエクスペリエンスの提供者は、常に新たな趣向を考え続けることになるわけだが、しかし視点を顧客自身において考えてみると、別の経済価値がそこに存在することに気づく。

 

つまりエクスペリエンスが陳腐化するのは、それを体験する顧客の状態が最初の時とは変わってしまっているからであり、「経験が人間を変えてしまうから」なのである!面白かった九九の授業がつまらなくなったのは、その生徒が九九を覚えて成長したからだ。

 

ドキドキしたジェットコースターに乗っても最初ほどドキドキしなくなったのは、そのジェットコースターに対する心構えが、そのファンにできてしまったからだ。

 

ある絵画における感動が薄れていくのも、それがその人の芸術的センスの一部となってしまったからだ。

 

ある経験がたとえ商業的なモノであろうとなかろうと、顧客の状態の変化を意図したものであろうとなかろうと、経験は何らかの形で人間を変えてしまう。

 

ということは逆に、エクスペリエンスをうまく組み合わせて提供することによって、顧客を顧客の望むような状態に変えるような、そんなサービスを創り出すことだって可能だということになる。

 

コモディティ化したエクスペリエンスをうまく組み合わせ、顧客を顧客の望む姿に変えるサービス。

 

これを「変身・トランスフォーメーション」と定義する。

 

なんかもっといいネーミングはなかったんかいなと思うが、人間の変身願望を叶えるサービスが、つまり経済価値としての「トランスフォーメーション」である。

 

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