都市は、城壁に囲まれているのがジョーシキ。
つい百数十年前には、城壁の中に住み、城壁の中で家畜などを飼ってくらすというのが、都市のあり方です。
中国や韓国などでは「東大門」「南大門」とか「朱雀門」「白虎門」などという門がやたらありますが、それは城壁都市の名残です。
この事情は、ヨーロッパでも同様でした。
ヨーロッパの古い都市には、中央にたいて大きな公園がありますね。
そしてそこを中心に、放射線状に道路が延びている。
パリなんかは、まさにそう言う造りですね。
あれだって、城壁都市の名残りです。
都市の中央に公園があるのは、そこに軍隊を駐留させるためです。
公園は英語でparkですが、parking(パーキング)は駐車場。
何を停めるかというと、馬とか、軍隊の車両とか、友軍の軍隊です。
また放射線状に道路を造っているのは、中央の公園から、すぐに外敵に対応できるようにしているわけです。
周りに城壁があって、門がいくつかあって、そこに中央の公園からまっすぐ道が延びている… そう言う構造ですね。
またヨーロッパの都市の周りには、環状道路とか、グリーンベルトという緑地帯があったりしますね。あれだって、かつて城壁だったところに作ったものです。
都市が発展して大きくなると、城壁も大きくすることになります。
そのとき、古い城壁を取り壊して、それを使って新しい城壁を、外側に造っていったわけです。
そして古い城壁の跡地が、今は道路になったり、グリーンベルトになっているわけです。
真説・背水の陣
都市というのは、城壁で守られているのが、つい最近までの常識でした。
となると戦争というのは、いかに城壁を崩すか。城壁を崩して攻め入るか…ということが勝敗の分かれ目になります。
いくら強い軍隊でも、城壁を越えられなければ話になりません。
つまり、城壁を崩したり越えたりして、敵の都市の中枢部を占拠するのが、戦争の勝ち負けだったのですね。
では『背水の陣』は、どういう戦法だったのでしょう?
背水の陣とは、河川を背にした状態の陣形ですね。
攻められると、川まで追い込まれてしまうわけですから、すぐに負けてしまいかねない陣形です。
元々そう言う守りやすい地形に、趙の国は城壁と門を築いていました。
天然の要塞と言うところでしょうか。
なのに韓信は、その攻めにくい門の前に、ほぼ全軍を配置します。でもって、食糧とか船とかまで処分して、攻撃を開始します。無茶な攻撃で、一種の特攻作戦です。
ところがそれを見た趙軍は、与しやすしと見て、門を開いて大軍を繰り出します。
さらに漢軍がひるんで退却するのを見て、川縁まで追撃します。
ところが実は、それこそが作戦だったわけです。
ひるんで逃げたと見せかけて、敵をおびき出して、そこから本気で戦いだしたわけです。
少数でも大軍と互角に戦える場所を選んで、漢軍は趙軍と戦ったわけです。
そうして戦いが膠着状態に陥っているうちに、隠れていた2000人ほどの別働隊が、城壁の門を突破して、門の内側に漢軍の赤いのぼりを、山ほど立ててしまいます。
それをみた趙軍は、自分の陣地が大軍に攻められていると錯覚して大混乱になり、漢軍の何倍もの兵力があったのに、負けてしまうわけです。
漢軍は、退路を断って戦ったから、勝ったわけではありません。
『背水の陣』というのは作戦のほんの一部で、それで勝とうとした訳じゃないんですね。
『背水の陣』という陣形を敵に見せて、与しやすしと錯覚させ、さらにひるんで退却してみせることで、まんまと敵軍を自軍に有利な場所までおびき出して、迎え撃ったんですね。