入会地(いりあいち)と堆肥(たいひ)

たい肥とは、人糞や馬糞などをワラなどと混ぜ発酵させた肥料のことである。

 

人糞や馬糞など糞尿を使った肥料のことを「下肥(かひ。

 

或いはしもごえ)」とよび、それを液体のままで使ったモノが「液肥」、そしてワラなどと混ぜて積み上げ発酵させたモノが「堆肥(たいひ。

 

あるいは積み肥などとも言う)」である。

 

良いたい肥を作るには良い糞尿がいるから、良い糞尿は高値で取り引きされた。

 

良い糞尿とは一般に、タンパク質の多いモノを食べた動物の糞尿であり、窒素やリンを多く含んでいる。

 

だからそれを肥料として使うと、明らかに作物のできが良くなった(今でも米作りでは鶏糞・つまりニワトリのフンを肥料として撒かれている)。

 

そう言うわけだから昔はサカナなど栄養のあるモノをたくさん食べている博多の街の糞尿を巡って、博多近郊の農民同士がいがみ合ったなんていう話(博多の肥騒動)もあった(栗本慎一郎さんの「都市は発狂する」という本の中で紹介されている)くらいである。

 


だがそんなよい下肥を使えるのは都市近郊農家だけであって、たいていの農村ではわずかな下肥を使って堆肥を作っていた。

 

周囲の山地の斜面や農地の外側を共同の「草刈り場」や「萱場」として設定(入会地という)し、そこから草を刈ってたい肥を作っていた。

 

肥料が不足していると見るや野草や青い草を刈ってそのまま水田に肥料として入れるという場合も多かった。

 

ところがである。

 

水田一枚に入れるたい肥を作るためには、実はその十倍もの広さの「草刈り場」や「萱場」が必要だったから、たい肥を作るようになってからムラの周辺の山は、禿げ山だらけになった。

 

森林は封建領主が切り出し、そして農民はたい肥を作るためにそうしていつも草を刈ったから、農村の周りの山林は奈良の若草山のような草や灌木ばかり生えているだけの斜面となった。

 

今のように田舎へ行けば田んぼの周りにうっそうと木々が生い茂った森があるという風景は百年前には殆どなく、ムラの周りには灌木と雑草の生えた侘びしい「草山」があっただけだったのだ。

 

もちろんその背景には、江戸時代が「米本位制」をとり、領主が家来に給料を米で支給したために「米偏重農業」が行われ、稲作が奨励されたということもあるのだが、しかしお陰で洪水は頻発するわ土砂崩れは起こるわ大変であった。

 

水田を宅地にしたから洪水が起こったなんて二三十年前に問題になったが、水田のせいで洪水は起こるわ土石流は発生するわ。

 

だから幕府や政府は森林を保護することに力を入れた。

 

なぜなら放っておけば年貢に困った農民がドンドン木を切って売り、その後を草刈り場(草山)にして使ってしまうもんだから。

 

農民が森林と共に生きてきたというのは、真っ赤なウソである。

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