所有の三重構造
そういうわけでヨーロッパでは、三年に一度は農耕地を休ませねば次からは作物ができないような農業環境であった。
そしてだからこそムラでは各農家に勝手に農業をさせず、何をどこで栽培するかを決めた上でそれを村人に割り当てるという方法で農業を行っていた。
そうでもしないと毎年ちゃんと農作物が獲れなかったし、また領主などに年貢や税金を支払えなかったからである。
だがしかし当時の人間はそれを不服とはしなかった。
というのも当時の土地所有の概念は三重の構造からなっていて、(一)うわつち(上土:表土)は農家のモノ。
(二)なかつち(中土)はムラのモノ。
(三)したつち(下土)は領主のモノ。
という考えであったからである。
つまり自分が耕している土地は自分のモノ(私有;保有)であるが、その一帯で農業がうまくできるのは灌漑や排水や耕作強制などといった生産環境をムラで整えているからで、それはムラのモノなのである(総有)。
そして農業ができようができまいが土地自体は領主のモノ(領有)。
そういう概念だったのである。
現在法律的に所有権というのがどのように定義されているのかは知らないが、経済学的には「所有権が誰に設定されていようと自由にコントロールすることができる財や資源」が「所有物」であって、そう言う財をコントロールできる場合を「所有している」と呼ぶ(残余コントロール権)。
つまりたとえムラから割り当てられた土地であっても、コントロールできる耕地の表土については「自分のモノ」、そして自分ではコントロールできないがムラレベルでは決めることができる中土については「ムラのモノ」、そして最終的所有者は「領主のモノ」という考え方が容易に成り立つのである。
だからこの時代のムラは、かなり安定していた。
土地は「自分のモノ」でありまた「ムラのモノ」であり「領主のモノ」であったのだから、その土地から獲れた収穫物は自分とムラと領主で分配するのは当たり前、そんな感じであった。
平等でないムラでは身分の高いモノが低いモノに仕事をさせる。
でもそんなことをすると今度は年貢や税も払えなくなり、ムラごと消滅しかねない。
そう言うわけでムラでは貴重な資源である農地をメンバーに行き渡るように分割し、それを平等にくじ引きで分けることによって、団結と相互扶助のためのインセンティブを維持していたのである。
何年かごとに行われる「割り替え」もその調整のための手段であって、人口の増減や働き手の数に応じて農地の区分線を引き直し、常にムラのメンバーを平等に扱うよう配慮されていたのであった。
ヨーロッパでは約三百年前までは殆どそんな状態だったのである。
そして後で述べるが日本でも明治維新時の地租改正まではそんな状態だった。
中世というのはそういう時代だったのだ。