英語の苦手な受験生は「自分が英語が出来ないのは、英文法がわからないせいだ」と思っているかも知れません。
そして英文法の本を一生懸命に読んだり、文法問題と呼ばれる問題集を解いてみるのですが、一向に成績が上がらず、「自分は頭が悪いのではないか?」と思っているかも知れません。
英単語もそこそこ覚えたし、熟語もそこそこ覚えたというのに、やっぱり英文和訳はうまくいかないし、大雑把な意味も取れない。英作文を書いてみても、日本語を適当に英単語に直してつないだような、変な英文ばかり作ってしまう。
だから英文法がダメだと思って、英文法を勉強するのですが、それでも相変わらず上達しないし、上達しそうな予感すらしないのですから、当然です。
「一体ワタシはどうすればいいのよ~!」と泣きたい気分か、「頭の中がモヤモヤ、大学行くのや止める!」という気分でしょう。
ところがそれは、勘違いです。
努力しているにもかかわらず、英語が読めない・書けないのは、頭が悪いのではなくて、「英語に対して、いろんな勘違いをたくさんしているだけ」なのです。
もちろんかくいうボクだって、特に英語が読めるわけでもなく、書けるわけでもありません。が、しかし大学入試程度の英文なら、単語や熟語さえわかれば意味くらいはすぐに取れます。
そして半年もじっくり勉強すれば、いろんな試験でそこそこの点数を取るのはさほど難しくないと思っています。記憶力がないので、そんなに簡単ではないでしょうが。
でもなぜそんなことが言えるのかというと、ボクは「英語が言葉だということを知っているから」なのです。
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●ボクが三留したわけ。
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お恥ずかしい話ですが、ボクは一回目の大学生活で、三留しました。
三留とは、三回留年したと言うことです。
当時、京大の工学部は、語学の単位16単位のうち12単位以上を取らねば3年生になれませんでした。が、ボクは必修のドイツ語が全然ダメで8単位どころか1単位も取れなかったのです。
ドイツ語は、英語とは親戚関係になる言語ですし、文法も英語よりハッキリしているのですが、それでもまるでわかりませんでした。おかげで三留です。
ところがその翌年、ボクはドイツ語の単位を全部(2年分)取りました。
なぜ突然取れたかというと、「ドイツ語が言葉だとわかったから」でした。
それまでのボクは、英語もドイツ語も、言葉だと認識していなかったのです。
言葉じゃないなら何だ? と言われそうですが、とにかくボクは、英語やドイツ語が言葉だとは、ハッキリ考えていなかったのです。
ところが三留した前後から、ボクはマンガを描いたり文章を書いたりし始めていました。
一浪して京大に合格したけれど、望まぬ学科で望まぬ勉強を強いられ、しかもお金がない。
ドイツ語の単位が取れないせいで進級も出来ず、卒業するのが難しくなっていても、学費も滞納しているので、辞めるに辞められない。
その他にも山ほどいろんなコトがあって、それを整理するためだったのかも知れません。が、とにかくボクは、マンガを描いたり文章を書き出しました。
ところがそうしてマンガを描いたり文章を書きだしててみると、文とか言葉というモノが何のためにあるのか、わかり出しました。
マンガや文章を書くと言うことは、絵や言葉を組み合わせて人に伝えると言う作業です。
もちろんモノを考えるために、紙の上に書き出したり、後々のために記録を残しておくという目的もあります。
そして人に伝えるのは「自分の意見」だったり「自分の主張」だったりするわけです。
自分の感動を他人に伝えたいとか、面白かったりしたことを他人に伝えたい、という場合もありますが、とにかく他人に何かを伝えたいために、言葉や文章というモノはあるわけです。
ところがこれが、難しい。
自分の意見や自分の感じたことを、言葉や文章でうまく表現するのは難しい。
何度も何度も書き直し、そして自分の意見に近づけていく。でも100%自分の意見を表現できた気はしません。
「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」という言葉がありますが、まさにそれでした。
※(書いたモノは、話すことの全てを表現できない。話すことは、思っていることの全てを表現できない、という意味の格言です)
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●英語は言葉。
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そしてそういう経験をした後、ボクは語学が少しわかるようになりました。
というのも英語やドイツ語の文章を見たとき、ボクは
「一体この文章は、何を表現しようとして書かれているのだろう?」
「この文章は、一体どんな状況や気分を表現したものなのだろう?」
といつも考えるようになったからです。
言葉や文章というのは、他人に伝えたいモノやコトを書き留めたものだと知ったことでボクは、その言葉や文章で、文章の書き主が何を言いたいのか何を伝えたいのかを、まず突きとめる癖がついたのです。
そして文法というのは、自分の意志や感覚を他人に伝えるためのパターンなのだと気づいたのです。
SがどうだとかVがどうだとかだから、こういう意味なのだ、ではなく、「こう言いたいときには、英語ではこういう形の文章が書かれるのだ」というふうに、視点が変わったのです。
たとえば私は髪を切ってもらった…と言いたいときには、
I have my hair cut.
と言うのだ。
鳥だったら良かったのになあ…と書きたいときには、
I wish I were a bird.
と書くのだ。
だから、I have my hair cut.と言う文章があったなら、この文章を書いた人は「髪を切ってもらった」ということを書こうとしているのだな、I wish I were a bird.と言う文章があったなら、この文章を書いた人は「鳥だったら良かったのに」と思ったことを書こうとしているのだな…という感じで文章を見れるようになったのです。
そうなると難解な文章も「文章の書き手が、とにかく何か表現したいと思って書いた結果」で、「一体何を書きたかったのだろうか?」と推測するコトができるようになりました。
文章を文法事項に従ってそのまま日本語に訳すのは難しくても、何を言いたいのか、何を表現しようとしているのかなら、おぼろげながらもわかります。
そして著者の言わんとするところが、前後関係などを参考にしながら、何となく取れるようになっていきました。
語学が難しいと思う人の多くは、そういう視点で語学を捉えていないのではないのでしょうか。
英語を学校文法ではなく、『感覚文法』で読むという、一冊です。英語がとにかく苦手な人に、お薦めです。

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