仏の話を聞く者と、聞かない者との差とは?

ボクにはアマノ君が三四回生の頃から急激に成長したのと、ビートたけしさんがマンザイブームを経て、メキメキとその才能を発揮しだしたのには、何か共通したものがあるように感じた。

 

彼らに共通する自分の失敗や恥ずかしいことを、恥も外聞もなく他人に広く披露できるという性格が、彼らの爆発的な成長や発展の、大きな要因であるかのように思えて仕方なかった。

 

彼らは共に何もそんな情けない事まで他人に話さなくても、というような失敗談ですら他人に話す。

 

ごく親しい友達だけにというわけではなく、周りにいる殆ど全ての知り合いに対してそれをする。

 

もちろん彼らだって相手に対して話す内容を変えていたようだが、しかしたけしさんに至っては、ありとあらゆる人間が見ているテレビ上でも、そういう事がすらすらできてしまう。

 

つまり本質的に彼らは、殆ど何でも話してしまえるようである。

 

でも彼らは一体なぜいつも、そんなことするのだろうか?そしてまた、彼らはなぜそれを恥ずかしく思わないのだろうか?ボクにはそれがどうも、不思議で仕方なかった。

 

「自分の恥部をさらしてまで一体何の得があるんだろう?」そう思って、彼らの行動を訝しがっていた。

 

だがしかしボクが何気なく増谷文雄の『仏教百話』を読んでいた時に、何だかそれがわかったような気がした。

 

この本は仏教に関わる様々な概念を仏陀と弟子の会話から紹介するという、言ってみれば仏教の物語風の入門書だったのだが、その中の一つの「受(じゅ)」の話の中にヒントがあった。

 


内容を思い切って意訳して
ここに書き出してみるとこうである。

 

ある時ブッダは弟子たちを集め、問題を出して試験をした。

 

それは仏の教えを聞くものと聞かないものとが、「受」においてどう違うのかという問題であった。

 

「仏教の教えを聞かない人間は、美しいモノを見たり楽しいことをしたりすると、『美しいなあ』とか『楽しいなあ』と感じ、また病気をしたり知人が死んだりすると、『苦しいなあ』とか『悲しいなあ』と感じる。

 

しかし仏教の教えを聞いた者もやはり、美しいモノをみたり楽しいことを体験すれば『美しいなあ』とか『楽しいなあ』と感じ、病気や死に対しては『苦しいなあ』とか『悲しいなあ』という感情が起こる。

 

仏の教えを聞こうが聞くまいが同じ感情が起こり苦しむのであれば、仏の教えなど聞かなくてもいいのではないのか?」そういう試験であった。

 

外界の刺激に対して反応する心のはたらきが「受(じゅ)」である。

 

感受性というのは受を感じる性質の感度のことをいう。

 

確かに坊さんであろうがなかろうが、怖いものは怖いし楽しいものは楽しい。

 

仏教というのは何が起こっても感情が起きない、人形だか石仏だかになろうという教えではない。

 

苦しみを克服しようという教えである。

 

だから修行をいくら積んでも普通一般の人間と同じように、様々な現象に対して様々な反応を示す。

 

楽しい感情を起こせば「楽受(らくじゅ)」、苦しい感情を起こせば「苦受(くじゅ)」、楽しくも苦しくもない場合は「非苦非楽受(ひくひらくじゅ)」と言う。

 

根気よく修行を積んで悟りをひらいたとしても、修行をしない人間と同じようにあたふたしたり苦しんだりするのであれば、仏教なんかやっても意味なんかないんじゃないの?

 

…とブッダは弟子たちに問うたわけである。

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