貧乏人には「徳」がない 

だが必需品という概念で考えてみると、なんとなく分かってくる。

 

裕福な親が子供の教育にお金をかけるのは、彼らが高等教育だとか海外留学などというものを、必需品であると見なしているからであろう。

 

必需品であるなら安く大量に手に入れるのが、賢い人間のやり方である。

 

子供を大学にやるのが「必需」なら、その費用を親が負担するのと子供に捻出させるのとで、「どちらがトクか」「どちらが効率的か」を考え、得な方を彼らは選ぶのである。

 

そう考えれば前者の方が得で効率が良いのはすぐわかる。

 

親は子供の学費を稼ぐのに専念すればよいし、子供は自分の学業に専念すればいい。

 

小遣い程度の金や勤労精神は、アルバイトをさせることで充分養える。

 

ムリがない。

 

学生が学費から学資・生活費・本代・小遣い・遊興費まで、全部の費用を自分一人で捻出しながら、大学へ通って勉学に励むというのがいかに大変で、しかも相当無理があるということは、工学部で立往生し結局退学した経験をしたボクには、身に染みてよくわかる。

 

アメリカなどのように貧民街出身の貧乏人でも、本当に充分な奨学金をもらって勉強できる制度があるならまだしも、日本のように中途半端なバラまき奨学金制度しかない場合では、まず無茶である。

 

つまり豊かな人々にとっては、広い部屋だとか高等教育だとか、車の運転などは当たり前の必需品なのであって、そのための費用は「当然の」出費なのである。

 

子供に犬が飼えるほど広いマンションを借りてやったり、立派な車を買い与えたりするのは少し行き過ぎかも知れないが、しかし子供に対してそういう投資をするのは当たり前のことなのだ。

 

もちろん投資と言っても、別に彼らが子供に何か大きな見返りを期待しているわけではない。

 

せいぜい彼らが生きている間ぐらいは財産を食い潰すなよ、というぐらいのものである。

 

というのも彼らは自分自身が充実しているし能力もあるから、自分より未熟で能力も落ちる子供の助けなど、全くアテにしていないのだ。

 

子供を育てて見返りを欲しがるのは、かえって中途半端な貧乏人の方であるらしい。

 


これを裏付けるような話が、邱永漢さんの本に載っている。

 

邱先生の実家は台湾の台南市で商売をしていたそうだが、ある日 日本人の警官だか役人だかが家計調査にやって来た。

 

と言うのも永漢さんの家は、家屋敷も普段着ている衣服も粗末だったのに、子供たちを台北帝国大学や内地(つまり日本)の大学に、どんどん留学させていたからである。

 

邱先生は東大経済学部卒だが、彼らはなぜそんなことができるのか、不思議に思ってやってきたらしい。

 

しかしお金があればまず家屋敷や、ファッションにお金を使うというのは、貧しい人間の発想らしい。

 

調べてみると邱先生の家ではまず食い物に、そして次に子供の教育費にお金を回していた。

 

つまり立派な家屋敷を建てたり、見栄えのする服にお金を使うより、まず食い物と子供にお金を回していたのである。

 

親が子供にそういう投資をし、子供はまた自分が親になった時に、自分の子供たちに同じように投資をする。

 

祖父母から孫へ孫からそのまた孫へもそういった投資が行われ、そうして代々「トク」を積み上げていけば、一族がどんどん裕福になっていくのは自明である。

 

もちろん家系のどこかの代で誰かがそういうことに気づき、頑張って子供に投資したとしても、子供がそのことを理解も実行もしなければ、すぐそこでこの「トク」は失われてしまうだろう。

 

また親が子供に大きな投資をしたとしても、親が子供にその見返りを求めてしまうと、やっぱりそこで「トク」はなくなってしまうだろう。

 

衣食住を充実させつつ倹約する。

 

手元にお金があろうが無かろうが、必要な金は十分出す。

 

子供には常に質の悪くないモノを与え、教育にいくらお金を使っても、見返りは期待しない。

 

自分もそうするし子供にもそうさせる…。

 

少なくともそういうハッキリとした方法論と、決意や実践がなければ不可能である。

 

つまりトクを積むには、そういう「徳」が必要だったのである。

 

だが悲しいかな貧乏人の家にはそんなモノはない。

 

あるのは目先の損得と
自分一人が苦しみから逃れればよいという、利己主義だけである。

 

(第6章・おわり)

広告

このエントリーをはてなブックマークに追加